親になると、不安になる。

この子はちゃんと育つだろうか。
勉強についていけるだろうか。
友達とうまくやれるだろうか。
将来、食べていけるだろうか。

だから、教える。

「ちゃんと勉強しなさい」
「そんなことをしていたら将来困るよ」
「もっと考えて行動しなさい」

もちろん、それ自体が悪いわけではない。

親には、子どもを守る責任がある。
けれども、どこかから少しずつ、

「この子が困らないように」

「この子が失敗すると、私が困る」

が混ざり始める。

ここには、大きな違いがある。

子どもが試験に落ちる。

そのとき、
「この子は悔しいだろうな」
と思えるなら、失敗はまだ子どものものである。

しかし、
「これだけやってあげたのに」
「だから言ったじゃないか」
「このままで将来どうするんだ」
と思った瞬間、少し違うことが起きている。

子どもの失敗によって、
親自身の不安が刺激されている。

そして親は、その不安をもう一度子どもへ返す。

もっと勉強しろ。
ちゃんとしろ。
失敗するな。

親の中で処理できなかった不安が、

教育という形をとって、
上流から下流へ流れていく。


これは、会社でも同じなのかもしれない。

社長が不安になる。
売上が落ちている。
競合が伸びている。
株主から説明を求められている。
このままではまずい。

すると役員に、
「もっと危機感を持ってほしい」
と言う。

役員は部長に、
「社長が相当危機感を持っている」
と言う。

部長は課長に、
「数字をもっと細かく管理しよう」
と言う。

そして最後には、現場の社員が、
「なぜか最近、報告書が増えた」
と感じている。

誰かが意地悪をしたわけではない。
むしろ、全員が真面目に仕事をしている。

それでも、

上流で処理されなかった不安は、
管理や命令に姿を変えながら下流へ流れていく。


攻撃性も同じだと思う。

上司に強く責められた人が、
その場では何も言い返さず、
別の場所で部下に厳しくなることがある。

親にいつも否定されて育った人が、
自分の子どもの失敗を許せなくなることもある。

傷ついた自尊心は、
その人の中で消えてなくなるわけではない。

どこかで処理されなければ、
より弱い場所へ流れていく。

家庭でも、会社でも、
そして、権力を持つ人ほど、
その影響範囲は大きくなる。

親の不安は、子どもの生活になる。

親が自分の不安を子どもに処理させれば、
子どもは「失敗できない子」になる。

上司の不安は、部下の働き方になる。

上司が自分の不安を部下に処理させれば、
部下は「上司を安心させるために働く人」になる。

そう考えると、
人の上に立つということには、
思っている以上に内面的な責任がある。


上に立つ人の内面は、
下にいる人にとっての環境になる。

けれど、ここでもう一つ考えてしまう。

その親もまた、
かつて誰かの子どもだった。

その社長も、
かつては先代の下にいた。

人は、自分が受け取ったものを、そのまま覚えているとは限らない。

昔、自分が耐えていた側だった人が、
気づけば、誰かに耐えさせる側に立っている。

世代をまたいで、繰り返されていることもある。

場所を変え、
役者を変え、
ドラマを変えながら、
似た場面が何度も再現される。

まるで、カルマのように。

子どもの頃、親にされたことを、
親になって子どもにしているのかもしれない。

新入社員の頃、上司にされたことを、
上司になって部下にやっているのかもしれない。

だから重要なのは、
自分の中を流れているものが、
本当に自分から始まったものなのかを考えること。

そして、自分が受け取ったものを、
そのまま次の人へ渡さないこと。

上流から流れてきたものを、
自分のところで一度、止めること。

たぶん、
統治というのは、
そこから始まる。

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