人と関わるとき、私たちはすぐに関係へ名前をつける。

顧客。
患者。
社員。
経営者。
オーナー。
支援者。

そして、その名前に合わせて、役割や契約や責任を決めていく。

けれど、本当はその前に、もう少し曖昧な時間があるのではないかと思う。

まだ何が問題なのかわからない。

まだ何をしたいのかわからない。

まだ商品でも、
事業でも、
作品でもない。

ただ、何かが気になっている。

何かが動き始めている。

私は、その時間を「心の楽屋」と呼んできた。


楽屋では、まだ舞台に出なくていい。

答えを出さなくてもいい。

矛盾していてもいい。

怖くてもいい。

変なことを考えてもいい。

まだ意味のないものを、少し遊ばせておくことができる。

人は、こうした場所があることで、もう一度夢を見ることができるのだと思う。

そして、そこから時々、それまで存在していなかったものが生まれる。

新しい言葉。
新しい関係。
新しい作品。
新しい意思決定。
あるいは、新しい事業。

それは最初から、どちらか一方の所有物だったわけではない。

二人のあいだ、人と世界のあいだから、少しずつ形になっていく。


だから私は、所有や契約を関係の出発点にしなくてもよいのではないか、と思うようになった。

最初にあるのは、信頼なのかもしれない。

「ここなら、まだ形になっていないものを置いてもいい」という感覚。

そこから、何かを一時的に預ける関係が生まれる。

秘密を預ける。
時間を預ける。
問いを預ける。
資本を預ける。
能力を預ける。
まだ言葉になっていないものを預ける。

そして、人間の時間も注意も有限だからこそ、その信頼を守るために、あとから形式が必要になる。

時間を決める。
料金を決める。
役割を決める。
守秘を決める。
退出の仕方を決める。

契約は、信頼の反対ではない。

信頼を、有限な世界の中で持続させるための形式

なのだと思う。


オーナーシップについても、同じように考えることができる。

会社には、社員の時間が預けられている。

顧客の信頼が預けられている。

投資家の資本が預けられている。

取引先の信用が預けられている。

そして承継された会社なら、先代から受け取った文化や関係まで預かっている。

その関係の束を、一定期間引き受ける人がいる。

結果として、その人が「オーナー」と呼ばれる。

つまり、

Ownershipが関係の起点なのではない。

信頼があり、何かを預ける関係があり、それを持続させる形式が生まれ、その結果として、オーナーという位置が立ち上がる。

オーナーとは、固定された身分ではなく、

一定期間、
その位置を引き受ける人

なのかもしれない。


問題は、そこで形式が強くなりすぎることである。

契約が増える。
ルールが増える。
組織が大きくなる。
守るべきものが増える。

そしていつの間にか、何かを生み出すためにつくった形式が、何も生まれないように世界を固定し始める。

所有する。
管理する。
判断する。
失わないようにする。

すると、最初にあった遊びや夢見が失われていく。

だから、成熟した組織や関係には、

もう一度、楽屋へ戻る運動

が必要なのだと思う。

まだ分からないことを、分からないまま置く。

まだ名前のないものを見る。

必要のないことを話す。

少し遊ぶ。

夢を見る。

そして、そこからまた新しいものが生まれたら、必要な形式をつくる。


私は、この循環を大切にしたい。

遊ぶ。
夢見る。
何かが生まれる。
預かる。
形式をつくる。
そして、また遊びへ戻る。

人も、
事業も、
組織も、
思想も、

この循環のなかにある方が自由でいられるのではないか。

所有しない、ということではない。

契約をなくす、ということでもない。

責任を放棄することでもない。

むしろ、

所有する前に、預かっていることを忘れない。

自分のものにしてしまう前に、それが自分とは別のものとして存在していることを覚えておく。

それが、他者への敬意なのだと思う。

そして、人が所有されずに何かを預けられる場所には、少しだけ自由が生まれる。

その自由の中で、人はまた夢を見ることができる。

「心の楽屋」は、そのための場所なのかもしれない。

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