「こうなりたい」「これを実現したい」と語ることはできる。
けれど、それが本当に自分の欲望なのかは、言葉だけでは分からない。
欲望には、掛け金がある。
お金を差し出す。時間を使う。評判を危険にさらす。別の可能性を諦める。失敗すれば傷つく場所に、自分の名前と身体を置く。
そうした掛け金が支払われたとき、願望は決断になり、欲望はその人自身のものになっていく。
人はときに、自分が選んだ自己像に人生を賭ける。
仕事も、お金も、評判も、時間も差し出し、簡単には別の人生へ戻れないところまで歩いていく。たとえ不器用でも、自分が選んだ役を、本気で成立させようとする。
もちろん、掛け金を払っているから、すべてが正しくなるわけではない。
技術は評価されるべきだし、他人を傷つける行為が許されるわけでもない。退路のなさを、美化する必要もない。引き返せないことは、本気の証明ではなく、囚われの表れであることもある。
それでも、掛け金を払っている人の生を、掛け金を払っていない場所から、軽く論じたり、評したりすることはできない。
批評すべきは技術や行為であって、その人が人生を差し出してきたことの尊厳まで、無かったことにしてはいけない。
このことは、お金を受け取る仕事についても同じである。
誰かが支払うお金は、単なる料金ではない。その人が働き、迷い、ときには傷つきながら手にしてきた人生の一部である。
とりわけ、自分の人生や欲望について誰かに相談するために支払われるお金は、「私はここから逃げずに考えたい」という意思の表明でもある。
お金は、欲望に対する署名になる。
だから、それを受け取る側にも気概が要る。
正当な対価を受け取ることに、後ろめたさを持つ必要はない。むしろ、対価を曖昧にすることで、引き受ける責任まで曖昧になることがある。
ただし、受け取った瞬間から、そのお金を単なる売上として扱うことはできなくなる。その背後にある相手の時間や決意を軽んじず、何を、どこまで、どれほどの期間引き受けるのかを明らかにする必要がある。
支払う側は、自分のお金と欲望を差し出す。
受け取る側は、自分の仕事と責任を差し出す。
対価とは、依頼者が欲望に署名し、受託者が責任に署名する場所である。
その双方が存在の一部を掛けることによって、欲望が現実と向き合うための場が成立する。