事業について考えていると、「顧客の欲望を握る」という言葉に出会う。
相手が何を欲しているのかを知る。
何に困り、何を恐れ、何を手に入れたいのかを理解する。
その欲望を押さえることができれば、商品は売れるし、顧客は離れない。
事業家として、それは一面では正しい。
けれど最近、僕は少し違うのではないかと思うようになった。
顧客の欲望は、握るものではない。
預かるものなのではないか。
「握る」という言葉には、どこか相手を動かすニュアンスがある。
この人は承認を求めている。
この人は失敗を恐れている。
この人は家族を守りたい。
この人は会社を失いたくない。
それを理解し、こちらがその欲望を満たす経路を押さえる。
マーケティングとしては強い。
しかし、それを突き詰めていくと、事業とは「人間の欠如を発見し、その欠如から離れられなくする技術」になりかねない。
僕がやりたいのは、たぶんそれではない。
たとえば、一人のオーナーから相談を受ける。
表面上は「会社をどうするか」という相談かもしれない。
けれど話を聞いていけば、その奥には、
会社を残したい。
家族を壊したくない。
従業員を路頭に迷わせたくない。
自分が築いたものを、変な形で次世代に渡したくない。
いくつもの欲望がある。
こちらが預かるのは、「会社」という物体ではない。
その人が、簡単には言葉にできないまま守ろうとしているものだ。
そして、一度それを預かれば、今度は本人だけを見ていても足りなくなる。
妻には妻の人生がある。
子どもには子どもの欲望がある。
経営陣にも従業員にも、取引先にも、それぞれ守ろうとしているものがある。
つまり、仕事が深くなればなるほど、預かるべきものは増えていく。
だから、事業が育つということを、僕はこれまでとは違う形で考え始めている。
営業の世界では、しばしば「ファネル」という言葉を使う。
たくさんの人に知ってもらい、その一部が顧客になり、その一部が継続顧客になる。
けれど、ある種の仕事は逆なのではないか。
最初は、小さなものしか預けてもらえない。
「少し相談してみよう」
から始まる。
そこで預かったものを、きちんと扱う。
すると、
「もう少し大きな判断も話してみよう」
になる。
やがて、
「家族にも会ってほしい」
「会社のこの問題にも関わってほしい」
「この契約の場にも立ち会ってほしい」
「次の世代にも関わってほしい」
となっていく。
顧客がファネルの奥へ進んでいるのではない。
信託される範囲が、少しずつ広がっている。
人から、家族へ。
ひとつの判断から、人生の大きな選択へ。
単発の相談から、会社や資産や次世代へ。
「この人になら、ここまで預けても大丈夫だ」
という境界が、少しずつ外側へ広がっていく。
これが、ある種の事業における成長なのではないかと思う。
だから、大切なのは顧客の欲望を巧みに握ることではない。
まず、自分が護れるものを護ることだ。
預かれないものまで引き受けない。
理解できないものを理解したふりをしない。
守れない約束をしない。
しかし、一度自分の責任として預かったものについては、軽く扱わない。
それを愚直に繰り返す。
すると結果として、「この人にはもう少し預けられる」という信頼が生まれる。
これは、契約について考えても同じなのだと思う。
契約とは、単に金銭と役務を交換するための紙ではない。
その契約によって、誰が何を誰に委ね、どこからどこまでを相手の責任として預けるのか。
それを明確にするものでもある。
だとすれば、良い契約とは相手を縛る契約ではなく、
預かったものの境界を明らかにする契約
なのかもしれない。
そしてこれは、オーナーという存在について考えてきたことともつながっている。
会社を「所有する」と言う。
しかし実際には、一人の人間が会社を永遠に所有することはできない。
その人が生きている一時期だけ、会社を預かっている。
資本も、組織も、ブランドも、人の人生も、やがて誰かの手へ渡っていく。
オーナーが会社の受託者なのだとすれば、そのオーナーから相談を受ける人間もまた、何かを預かる受託者なのだ。
所有ではなく、受託。
支配ではなく、責任。
囲い込みではなく、信託。
事業というものを、そんなふうに捉え直すことができるのではないか。
顧客の欲望を握るのではない。
その人が大切にしているものを預かる。
そして、
預かれるものだけを預かり、預かったものは護る。
顧客を増やすことよりも先に、まず一人から預けてもらったものを、きちんと扱う。
事業とは、その積み重ねによって、
「この人なら、どこまで預けられるか」という信託範囲を、少しずつ広げていく営みなのかもしれない。