何かを所有すると、自由になれるような気がする。
会社を持つ。
土地を持つ。
資産を持つ。
けれど、あるところから、奇妙な逆転が起こることがある。
所有していたはずのものに、
自分の方が所有され始める。
会社を守る。
社員を管理する。
資産を失わないようにする。
自分がいなくても回るようにしたいのに、本当に回り始めると不安になる。
すると、もっと見る。
もっと管理する。
もっと自分で判断する。
自由になるために持ったものを維持するために、自分の時間と注意を差し出していく。
問題は、所有することではない。
所有しているものと、
自分自身が重なってしまうことだ。
「私はこの会社のオーナーだ」が、「この会社は私だ」に近づいていく。
会社が傷つけば、自分が傷つく。
人が離れれば、自分が否定されたように感じる。
事業を手放すことが、自分自身を失うことのように感じられる。
だから、さらに支配しようとする。
そしてその結果、所有者はますます所有物から自由でいられなくなる。
StewardshipやTrusteeshipには、会社や資産を絶対的な「自分のもの」ではなく、一時的に預かり、次へ渡していくものとして考える思想がある。
私には、オーナーは、所有者というより、一時的な受託者なのではないかと思える。
会社も土地も資産も、永遠に自分のものではない。
売るかもしれない。
閉じるかもしれない。
誰かに継ぐかもしれない。
そして最後には、自分自身がいなくなる。
ならば、「これは私のものだ」ではなく、
「いま、この期間、
私が預かっている」
と考えることもできる。
受託者であることは、無責任になることではない。
必要なら投資する。
人を雇う。
利益を出す。
ルールもつくる。
ただし、会社を自分自身とは混同しない。
社員も、後継者も、自分の一部ではない。
他者を完全に握ることはできない。
だから良い統治とは、すべてを思い通りに動かすことではなく、
人が自分から動けるための
枠を整えること
なのだと思う。
庭師が植物そのものを伸ばせないように、オーナーも組織そのものを生きることはできない。
そして、良い所有には、手放せる余地が必要なのだと思う。
売ってもいい。
継いでもいい。
自分がいなくても回っていい。
良い所有とは、
手放せる所有である。
所有を否定する必要はない。
利益を得てもいい。
成長してもいい。
資産を持ってもいい。
ただ、それらを失えば自分まで失われる、というところまで同一化しない。
その距離があるからこそ、遊びや夢を見る余白も残る。
有限な人生の中で、私たちはいくつかのものを預かる。
それを囲い込むのか。
手入れをして、次へ渡すのか。
同じ「所有」でも、心の置き場所はまったく違う。
オーナーは、所有者ではない。
一時的な受託者である。