会社を所有していることと、主人であることは、同じではない。

株を持っている。
代表取締役である。
最後の決裁権を持っている。

制度の上では、その人が主人である。

けれど、主人の座にいることと、主人として立てることのあいだには、思っている以上に大きな距離がある。

ここでいう「主人」とは、偉い人という意味ではない。

誰にも正解を保証してもらえない場所で、

「ここから先は、自分が決める」

と言う人のことだ。

そして主人にも、いくつかの発達段階があるのではないかと思う。


第一段階 主人の座を与えられる

とくに世襲企業では、人は主人になる前に、主人の座を与えられる。

「いつかお前が継ぐ」

そう言われ、社員からも、取引先からも、家族からも、次の主人として見られる。

けれど、役割を与えられることと、その役割を自分のものとして引き受けることは違う。

本当に自分が決めていいのか。
前の世代なら、どうするだろう。
社員は、自分を認めているのだろうか。

それでも周囲からは、主人として扱われる。

すると人は、自分の内側にまだない主人性を、肩書や実績、強い言葉によって外側から補おうとすることがある。


第二段階 主人を演じる

ここでは、主人性はまだ他者の視線に支えられている。

社員に反対されると、自分の権威が傷ついたように感じる。

優秀な人を側に置きたい一方で、その人に自分の座を脅かされる。

だから、主人であることを繰り返し確かめなければならない。

「俺が決める」
「これは俺の会社だ」

言葉だけを見れば、主人らしい。

けれど、本当に主人として立てている人ほど、それを頻繁に証明する必要はない。

主人性を誇示しなければ維持できないうちは、まだ主人性は外側にある。


第三段階 主人として立つ

主人として立つとは、何でも知っていることでも、間違えなくなることでもない。

むしろ、

保証がなくても決められること

である。

専門家の意見を聞く。

社員の反対意見も聞く。

過去の経験にも学ぶ。

それでも最後には、「私はこうする」と自分の名前を置く。

そして、結果がどうであれ、その判断を採用したのは自分だったと引き受ける。

ここまで来ると、主人であることを必要以上に示さなくてもよくなる。

分からないことを、分からないと言える。

自分より優秀な人に任せることもできる。

主人として立てるからこそ、他者に委ねることができる。


第四段階 主人でなくても、自分でいられる

けれど、主人として立てることが、最後ではない。

自分がいなくても会社が回り始める。

次の世代が、自分とは違うやり方を選ぶ。

そこで、別の問いが生まれる。

「主人であること」と「自分であること」を分けられるか。

この問いを通過できないと、主人は永遠に主人でいなければならなくなる。

権限を渡したようで渡さない。

後継者を育てながら、最後のところでは任せない。

けれど、十分に主人として立った人は、やがて、

「主人でなくなっても、私は私である」

という場所へ行くことができる。


第五段階 預かる

ここで初めて、「所有」という言葉の意味が少し変わる。

会社は確かに自分のものだ。

自分が責任を持ち、愛し、守ってきた。

だからこそ、その中には、自分だけではつくれなかったものがあることも見えてくる。

前の世代がつくったもの。
社員たちの時間。
顧客との関係。
そして、自分より後に続いていく時間。

すると、「私の会社」という感覚を失うことなく、

「私がいま預かっている会社」

という感覚を持てるようになる。

これは、所有を否定する話ではない。

主人になることを諦める話でもない。

自分のものとして引き受けたからこそ、いつか次の人へ渡すことができる。

だから、

預かるためには、一度、主人にならなければならない。

そして、その先で、主人は主人でなくなる。

自分を「所有している主体」としてではなく、受け取り、手入れし、次へ渡す「通過点としての主体」として捉え直す。

所有者から、受託者へ。


主人の発達は、おそらく、

主人として見られる
→ 主人を演じる
→ 主人として立つ
→ 主人でなくてもいられる
→ 主人の座を預かる

というように進んでいく。

もちろん、人は一直線に進むわけではない。

これは優劣をつけるための段階ではなく、

いま、自分は何を引き受ける時期にいるのか。
そして、何を渡す時期にいるのか。

を考えるための見取り図である。

自分の名で主人を引き受けた先で、ようやく「これは、いつまで自分が持つものなのだろう」という別の問いが生まれる。

最も成熟した主人とは、

主人の座に立つことも、そこから降りることもできる人

なのかもしれない。

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